1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:10:58.37 ID:CwOozwC90
武田信玄とか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/武田信玄 武田 晴信/武田 信玄は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。 甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。 ![]() |
102 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:32:57.03 ID:Qqn67ws00
マジレスすると信玄な
砥石崩れ以外目立った敗戦ないし
義弘も捨てがたいけどな
189 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:12:45.00 ID:57BzAai60
武田信玄の騎馬隊は発想は面白いと思う
絶対に勝てる戦にしかださないことで騎馬隊=負けフラグと相手に思わせる
なかなか素晴らしいブラフだよな
その他は大した事ないけど
190 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:13:52.71 ID:b3FHFsop0
>>189
騎馬隊は江戸時代の創作
赤備えな
http://ja.wikipedia.org/wiki/赤備え 赤備えは戦国時代の軍団編成の一種で、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時赤は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。 ![]() |
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208 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:26:05.98 ID:6PXUc5wx0
人は城 人は石垣
やっぱり武田信玄だと思うなぁ俺は。
210 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:29:12.03 ID:b3FHFsop0
>>208
村上義清を何度も攻めたが全敗して有力な家臣を大量に失っている
没後の織田家による武田攻めを見ても、あまり家臣団が大名に忠誠を誓っていると考えにくい組織になっている
でも野戦は強いね、有能な家臣も揃っている(集めたのは親父だけど)
4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:11:57.38 ID:6DZVsGEq0
東郷さんは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/東郷平八郎 東郷 平八郎は、日本の武士、軍人である。 明治時代の日本海軍の司令官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた。 日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。 ![]() |
8 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:12:21.27 ID:amnGNhVy0
平八郎
20 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:14:28.51 ID:7g93nGiL0
トウゴウ・ターン
でもあれ後半の第一艦隊の挟み撃ちは普通にまぐれだよな
http://ja.wikipedia.org/wiki/トウゴウ・ターン 日本海海戦において日本海軍の東郷平八郎連合艦隊司令長官は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻を率いてロシアのバルチック艦隊(戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻主力)を迎え撃った際に、丁字戦法を利用したとされている。ただし、戦略的な企図としてはロシア艦隊をウラジオストクへ逃がさないために反航戦から同航戦に持ち込むことを主眼としている。ロシア艦隊が反航戦を望んだのに対し、日本側は敵の面前で左一六点(180度)逐次回頭を行った。 ![]() |
33 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:17:25.42 ID:ddT9/+4n0
>>20
運も実力のうちさ
27 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:15:58.24 ID:t/R5Y/Ksi
近代日本三大戦術家
山本五十六
東郷平八郎
石原莞爾
それ以前のだと織田信長とか源頼朝あたりが入るな
39 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:18:46.36 ID:H0nb0WQg0
>>27
石原莞爾ってそんなにすごいの?あんまよく知らないんだけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/石原莞爾 石原 莞爾は、昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。 「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。勲一等・功三級。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。 ![]() |
70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:23:53.11 ID:+qCn4pjN0
>>39
関東軍を率いて20倍の兵力の中国軍と戦って満州を占領した
30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:16:56.41 ID:729ZVfh00
五十六さん!
http://ja.wikipedia.org/wiki/山本五十六 山本 五十六は、新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。 ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。 ![]() |
372 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/02(土) 00:37:50.76 ID:notcgRMM0
五十六は最初にそこそこ勝ってやるから有利な条件で早期講和に持ち込んでくれ、ってことだったんじゃないの
お互い引けない戦争になっちゃったから無駄になったけど
11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:12:49.25 ID:9BQyAQ6HO
島津義弘あたりも捨てがたい
http://ja.wikipedia.org/wiki/島津義弘 島津 義弘は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。九州の南端、薩摩国の戦国大名。 兄で16代当主義久、同母弟歳久、末弟家久と戦国一の仲の良さと総合能力の高さに定評のある「島津四兄弟」を構成し、島津氏中興の祖である祖父島津忠良からは、 雄武英略をもって他に傑出する と評されている。 ![]() |
97 名前:梨奈@ノノ*^-^) ◆Pi5IPOjpysnL [] 投稿日:2011/07/01(金) 20:31:44.91 ID:bFGJS8PL0
島津義弘
関ヶ原の敵陣突破や朝鮮出兵等で活躍してます
http://ja.wikipedia.org/wiki/島津の退き口 宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は早々と壊滅し、小西行長も敗走。 石田隊も東軍の総攻撃を相手に粘りに粘り続けたが、島、蒲生、舞などの重臣は討死し、とうとう壊滅した。 こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。 ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」が開始される。 島津義弘隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央を強行突破。 家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。 松平、井伊、本多の徳川諸隊は島津隊を執拗に追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みる。 実際、決死の覚悟を決めた島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。 徳川諸隊は、島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれた事と、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことから深追いは避けた。 一方の島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも撤退に成功した。 盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、 義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。 |
286 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 22:10:11.03 ID:YU0SWzBN0
島津義弘かな
朝鮮出兵や関ヶ原の中央突破は薩摩隼人の強さがあってこそかも知れんが
14 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:13:21.05 ID:wlBPtpS60
竹中半兵衛の事か
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹中重治 竹中 重治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 竹中 半兵衛(たけなか はんべえ)の通称で有名。 戦国時代を代表する軍師[注釈 1]としても知られ、豊臣秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「二兵衛」と並び称された。 ![]() |
74 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:24:30.32 ID:X9KPzRWlO
竹中半兵衛って何が凄いのかいまいち分からない
知られてる功績って稲葉山城乗っ取りぐらいしかなくね?
86 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:26:47.62 ID:KK36Jn/A0
>>74
その稲葉山城乗っ取りが凄いんだろ
良将の安藤守就も信頼するほどの男だし、並大抵な人物じゃない
http://ja.wikipedia.org/wiki/稲葉山城乗っ取り 主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。 このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか1日で奪取した。 織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した[注釈 2]。 |
78 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:25:32.37 ID:yzJqzqeVO
黒田如水(官兵衛)に決まってんだろ
http://ja.wikipedia.org/wiki/黒田如水 黒田 孝高 / 黒田 如水は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。 「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。 ![]() |
109 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:35:18.72 ID:RaYiy1Hk0
官兵衛はさりげなく関ヶ原のときに九州で大活躍だったしな
82 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:26:18.94 ID:c/dQWFT90
竹中半兵衛の軍師(笑)としての活躍は全部講談で
史実では可もなく不可もないただの秀吉の与力の一武将だぞ
黒田官兵衛はガチですごい
24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:14:47.49 ID:U+IYK4sXi
織田信長
鉄砲のあれはすごいと思われ
http://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長 織田 信長は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。戦国時代における三英傑の1人。 急死した父の後を受けて家督を継ぎ、同母弟・織田信行(信勝)との家督争いを経て尾張国を統一した。 以降、尾張国守護代の一家老に過ぎなかった織田家(弾正忠家)を卓越した手腕で全国最大勢力にまで押し上げる。 ![]() |
68 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:23:38.51 ID:c/dQWFT90
信長は史上最高ではないかもしれんけど戦術家としても一流だから
稲生、桶狭間、天王寺と自ら前線に出た戦では全部劣勢を覆して勝ってる
80 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:25:35.23 ID:zylkHzo+0
桶狭間はヤケクソの強襲戦したらマグレで勝てただけって説もあるけどな
12 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:12:54.94 ID:z7vqlNsmO
楠正成にしとけ
http://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成 楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。 建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。 鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。 ![]() |
154 名前: 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:54:13.77 ID:6FiQwt4D0
>>12で出てた
354 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/02(土) 00:18:47.83 ID:52ef4i/z0
戦国じゃないけど、楠木正成を推す。
十倍以上の相手をいつもフルボッコだぞ。
356 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/02(土) 00:22:22.98 ID:U7KNSWvQ0
>>354
やっぱ楠木正成は天才だよな
赤坂城とか
http://ja.wikipedia.org/wiki/赤坂城の戦い 赤坂城の戦いは、鎌倉時代後期1331年9月11日に起こった河内国の戦い。 河内国・赤坂城に於いて、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、凡そ500の寡兵をもって約20~30万の幕府軍とわたり合った戦いである。 ![]() |
44 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:19:49.06 ID:zA79c3GOO
マジレスすると義経だな
http://ja.wikipedia.org/wiki/源義経 源 義経は、平安時代末期の武将である。 兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。 ![]() |
138 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:47:47.23 ID:M1/Kr6Rq0
義経は世界史でも有数の敗北したことのない指揮官だと聞いたことがある
219 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:33:42.62 ID:U5Y2jdsq0
やっぱり源義経にしよう
騎兵隊の機動力を生かした作戦を実行し成功させたのは評価に値する
252 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:49:37.01 ID:RQeZpgdD0
義経の鵯越の逆落としはガチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/逆落とし 精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。 『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。 義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。 崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、 義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。 ![]() |
34 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:17:32.61 ID:xmfkJ+8g0
最高のルール無視野郎は義経か謙信たん
40 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:18:47.26 ID:CwOozwC90
>>34
謙信は何したん?
90 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:27:48.23 ID:xmfkJ+8g0
>>34
嘘の可能性高いけど自ら敵と打ち合う行動とか
義経は逆落とし・船頭への攻撃
37 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:18:13.13 ID:imirNEq/0
牟田口廉也を敵に送り込むと一瞬のうちに壊滅させてくれるぞ
http://ja.wikipedia.org/wiki/牟田口廉也 牟田口 廉也は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。 ![]() |
284 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:09:11.57 ID:LAJGaYcXi
牟田口廉也だろ
あれだけの大部隊を壊滅させた功績は大きい
53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:21:00.58 ID:X4/eXTXn0
毛利元就が出てないとか・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就 毛利 元就は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、 中国地方の覇者となり「謀神」「謀将」とも評されるが、「知将」の呼び名の方が高く、「戦国最高の知将」と後世評される。 用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。 ![]() |
63 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:22:48.25 ID:RaYiy1Hk0
>>53
元就は戦略家じゃないかと思ったけど厳島とかあるか
http://ja.wikipedia.org/wiki/厳島の戦い 厳島の戦は天文24年10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦である。 宮尾城には陶方から毛利方に寝返った己斐直之・坪井元政が約500人の兵力で守りについていた。元就は「今厳島を攻められれば困ると元就が言った」という嘘の情報を流させたり、元就の家臣桂元澄が陶晴賢に対して内応を約束するという偽の書状を出したりするなどの謀略を使って、陶軍を厳島におびき寄せようとした。陶方の弘中隆兼は危険であるとして厳島攻撃に反対したが、結局晴賢は厳島に向けて出撃した。 ![]() |
77 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:25:16.06 ID:X4/eXTXn0
元就ほど戦争を経験してるやつはおらんだろ
89 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:27:13.70 ID:c/dQWFT90
>>77
あらゆる状況、規模の戦を経験したって点なら秀吉だろうな
http://ja.wikipedia.org/wiki/豐臣秀吉 豐臣 秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。 当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。 その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継の地位を得る。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を果たした。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。 ![]() |
19 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:14:26.99 ID:Dlq7eTbD0
蜂須賀小六に仕えてから織田信長に仕えた
出世の戦術とさしては秀吉かなぁ
31 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:17:05.28 ID:4tB/4Jhm0
陸戦と海戦は分けるべき。更に陸戦は、野戦と攻城戦、篭城戦で分けた方がいい。
陸戦
野戦 島津家久
攻城戦 豊臣秀吉
篭城戦 真田昌幸
海戦
秋山真之
あたり。
84 名前: 忍法帖【Lv=25,xxxPT】 [] 投稿日:2011/07/01(金) 20:26:39.00 ID:Dzb4y1R60
真田昌幸の籠城戦はゲリラ戦を織り交ぜて積極的に反攻するってのが凄いと思った
http://ja.wikipedia.org/wiki/真田昌幸 真田 昌幸は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。 信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。武田信玄時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立し後北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において近世大名化する。 上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され講談や小説などでも知られるようになる。 ![]() |
同じことは幸村の真田丸にもいかされてる
ただ、攻めてくる敵がなんであんなに軽々と前進するのか分からない、もっと頭使えよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/真田丸 真田丸は、1614年(慶長19年)の大坂の役(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城(曲輪、防御構造物)である。 単独で機能する小城砦で、甲州流築城術の丸馬出、西洋築城術の稜堡に相当。 ![]() |
203 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:21:56.09 ID:RaYiy1Hk0
真田家の優秀さは凄いよな
324 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:49:08.94 ID:ca48WTMI0
真田の親父か蝮の人じゃね
http://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤道三 斎藤 道三は、戦国時代の武将。美濃(岐阜県南部)の戦国大名斎藤氏の初代当主。 北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。 ![]() |
あの二人はおかしい
326 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:52:22.90 ID:CwOozwC90
>>324
斎藤道三は良かったなぁww
最期が残念だったが
戦術家としても良かった
180 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:04:02.49 ID:CGXuq5XA0
戦術と戦略の違いは各自ディクショナリーを引けばいいとして
戦術なら秋山真之
http://ja.wikipedia.org/wiki/秋山真之 秋山 真之は、大日本帝国海軍の軍人。 明治19年海軍兵学校に入学し、首席で卒業。 明治37年に始まった日露戦争では、作戦主任参謀をつとめ、東郷平八郎率いる連合艦隊の作戦を実質的に一人で立案した。 ![]() |
382 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/02(土) 00:52:14.53 ID:7u+tRSPE0
秋山真之
ところで東郷は何をしたの?
日本海海戦は秋山の戦略じゃなかった?
387 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/02(土) 00:58:20.02 ID:y5POLwCa0
>>382
日本海海戦に限らず諸海戦に関わる艦隊の運用は東郷が責任持ってたわけだし、
旅順艦隊の抑え込み、ウラジオ艦隊の合流阻止とか日本海海戦の勝利に
寄与する働きをしたっつーことで評価されてんじゃないの
5 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:12:02.20 ID:4tB/4Jhm0
島津家久かな
http://ja.wikipedia.org/wiki/島津家久 島津 家久は、戦国時代・安土桃山時代の島津氏の武将。 九州制覇を目指す島津氏は、豊後の大友氏を攻めようとしていたが、上洛して秀吉に謁見していた大友氏の援軍として天正14年(1586年)、仙石秀久を大将に長宗我部元親、信親父子、十河存保など、総勢6000余りの豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸した。家久はこれを迎え撃ち、敵味方4000余りが討死する乱戦となったが、長宗我部信親、十河存保らは討死し、豊臣連合軍は総崩れとなって島津軍が大勝を収めた。 |
245 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:45:30.77 ID:Ag08S8E60
DQNじゃない家久
253 名前: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 [] 投稿日:2011/07/01(金) 21:51:54.64 ID:p6b2t2Dd0
>>245
確かにあの時代なら最強クラスだろうな
釣り野伏せという単純な戦法で大名クラスの首3つ獲った実績は相当戦が上手かった証拠だろうし
http://ja.wikipedia.org/wiki/釣り野伏せ 野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法である。 まず中央の部隊のみが敵に正面から当たり、敗走を装いながら後退する。これが「釣り」であり、敵が追撃するために前進すると、左右両側から伏兵に襲わせる。 これが「野伏せ」であり、このとき敗走を装っていた中央の部隊が反転し逆襲に転じることで三面包囲が完成する。 ![]() ![]() |
102 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:32:57.03 ID:Qqn67ws00
お前ら家久家久言ってるけど沖田畷以外になんかあったか?
110 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:35:32.92 ID:4tB/4Jhm0
>>102
戸次川があるけど、まぁ、何をおいても沖田畷。
個人的に、沖田畷の戦いは日本の野戦史上における、最高の戦術的傑作だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/沖田畷の戦い 沖田畷の戦いとは、日本の戦国時代の1584年3月に肥前国島原半島(長崎県)で勃発した九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦である。 ![]() |
123 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:39:49.76 ID:Qqn67ws00
>>110
隆信の慢心もあるだろ
相手が鍋島なら勝てなかっただろうし
それより義弘の七千対数十万はどうなんだ?
162 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:56:35.43 ID:4tB/4Jhm0
>>123
戦史に於ける大勝利の背景には、大抵、彼我の将兵に大きなレベル差があることが多い。
泗川の戦いでも、100年以上にわたる血みどろの内戦の果てに、将兵の経験地が極大化
している日本軍と、国運衰微の過程にある明軍との間では、同条件で戦うなら日本側圧勝
だろうという基本的な将兵の経験値格差がある。もちろん、それでも十数倍とも言われる数の
敵を撃破したのは、驚嘆すべき戦果だが。
ただ、特に俺が島津家久を推す理由は、沖田畷の手並み自体の鮮やかさとともに、戦った
相手が竜造寺隆信と、決して凡百の将ではない点。まあ、隆信の用兵には荒さも目立ち、
最高の副官である鍋島直茂のサポートあってはじめての為しえたとはいえ、一国人から
五州二島の太守とまで言われる勢力に駆け上がった男だ。泗川に於ける明軍の将、董一元とは
流石にレベルが違う。その隆信に対して、戦術的に鮮やかに完勝し、且つその首級まで討ち取って
るという点が、家久の能力として特筆に価すると思う。
56 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:21:32.70 ID:b3FHFsop0
立花一族周りも中々
http://ja.wikipedia.org/wiki/立花道雪 立花 道雪/戸次 鑑連は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、豊後の戦国大名大友氏の家臣である。 道雪は『大友興廃記』などによれば若い頃に落雷を受けて半身不随になり、以後輿の上で指揮をとっていたとされる。 また、落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀「千鳥」を「雷切」と改名し、傍らに置いていたという伝説もある。 このようなハンデを抱えながら大友氏のために奮戦し続けた生涯であったことから、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていたという。 ![]() |
http://ja.wikipedia.org/wiki/高橋紹運 高橋 紹運は、戦国時代の武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父に当たる。 同じ大友氏配下の武将立花道雪に劣らぬ勇将であった。島津氏が大軍を率いて攻めてきた際に岩屋城に寡兵で籠り、半月もの間抵抗して玉砕した。 初名は吉弘 鎮理といい、のちに宗麟の命令で高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種と称した。 戦国期の九州を代表する名将の一人として知られる。 ![]() |
http://ja.wikipedia.org/wiki/立花宗茂 立花 宗茂は安土桃山時代の武将。関ヶ原で改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将である。 ![]() |
132 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:45:28.18 ID:b3FHFsop0
何時もの
◆立花宗茂の輝かしい戦歴◆
石坂の戦い ○ 立花高橋軍5千 対 秋月種実5千(統虎、堀江備前を倒す)
岩戸の戦い ○ 立花道雪 千5百 対 秋月種実3千(威嚇を混ぜた奇襲で撃破)
立花城防衛戦 ○ 立花軍 5百 対 秋月種実8千(薦野増時らに夜襲させ撃破)
立花城防衛戦2 ○ 立花軍 千5百 対 島津忠長5万(粘り勝ち撤退する敵に追撃)
高鳥居城攻略 ○ 立花毛利軍千7百 対 星野吉実3百(銃撃をうけるが下がらずに指揮)
平山城救援 ○ 立花高橋軍千2百 対 有動兼元3千(有動下総守を自ら討ち取る)
田中城攻略 ○ 小早川立花軍1万 対 和仁3兄弟千(和仁軍は2月持ちこたえた)
小田原城攻略 ○ 豊臣秀吉 対 北条氏直 (東の本多、西の立花)
漢城付近砦攻略○ 立花軍 3千 対 朝鮮軍6千(草刈で誘い出し伏兵で撃破)
碧蹄館の戦い ○ 日本軍 4万 対 李如松率いる明軍+朝鮮軍4万?
(前哨戦で自軍のみで明の先陣を破り、本戦では先陣を譲って機を見て参戦)
晋州城攻略 ○ 日本軍 12万 対 キムチョンイル 7千、増援4万
(救援に来た4万の軍の先陣7千、2陣1万7千を毛利秀包と共に4千で撃破し援軍を退けた)
般丹の戦い ○ 立花軍 8百 対 高策 2万2千(夜襲+火計を用いて撃破)
蔚山城救援 ○ 立花軍 千 対 明軍
(奇襲で5千を撃破した後捕虜を解放してわざと敵に夜襲させ伏兵で1万を撃破)
露梁海戦 ○ 島津立花 対 李舜臣(小西軍の救出に成功、舜臣死亡)
大津城攻略 ○ 毛利立花1万5千 対 京極高次2千(塹壕を築き早合による銃撃)
柳川開城 × 立花軍 4千 対 鍋島・黒田・加藤
(家康との停戦交渉中に鍋島軍襲撃、小野和泉に八の院で迎撃させる。清正の調停で開城)
大阪の役 ○ 徳川家康 対 豊臣秀頼(大野治房軍の秀忠本陣突入を予見)
島原の乱 ○ 松平信綱12万 対 天草四郎3万7千(兵糧攻めを支持、夜襲を察知)
しかし個人的には楠木 正成も押したい、あいつは絶対戦国時代からタイムスリップしただろと言いたいほどの
戦をしている
135 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:47:09.48 ID:xmfkJ+8g0
宗茂は人格含め、後で書き換えられてんじゃないのってレベルで凄い
137 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:47:44.17 ID:KK36Jn/A0
>>132
こいつはいい話スレ住人に祭り上げられてて好きじゃない
150 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 20:52:45.10 ID:b3FHFsop0
>>137
実父が岩屋城を750名で鬼島津相手に凄まじい篭城戦をした高橋紹運
養父が雷神と呼ばれた立花道雪
嫁は鬼嫁
そんな一族に育てられた戦国時代最高の戦闘サイボークだぞ、人間味がある意味薄くて当然かもしれんwww
200 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:19:46.91 ID:dTRc6isv0
ここまで北条はないのか。
早雲もいいけど、やはり氏康の川越合戦、上杉武田を小田原で追い返すなどなかなかかと。
三増峠が北条軍の大勝利ならID真っ赤にしてでも推したけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/北条氏康 北条 氏康は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、 武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、後世につながる民政制度を充実させるなど、 政治的手腕も発揮した。世に相模の獅子と謳われる。 ![]() |
254 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:53:04.11 ID:0669GA280
小隊レベルの戦術なら舩坂弘(最終階級軍曹)とか。
・パラオ - マリアナ戦役で米兵を200人以上殺傷
・鹵獲した短機関銃で3人を一度に倒す
・左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げ突き殺す
左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創、右肩捻挫、右足首脱臼、軽傷無数
→この状態で三日間匍匐前進し敵の前哨陣地を突破、司令部まで20メートルの地点にまで潜入成功
↑この約一週間後、瀕死状態で捕虜収容所から脱走。ついでに米軍弾薬庫の爆破に成功。
http://ja.wikipedia.org/wiki/舩坂弘 舩坂 弘は、日本陸軍の軍人、大盛堂書店代表取締役会長。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。 ![]() |
256 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:54:03.41 ID:U5Y2jdsq0
>>254
ほとんど個人技なんだけど
259 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:56:52.91 ID:4iudIHbO0
硫黄島の栗林閣下はお前ら的にどうなのよ?
あの戦術は世界的に高く評価されてるらしいけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/栗林忠道 栗林 忠道は、大日本帝国陸軍の軍人。硫黄島の戦いでの日本側指揮官として知られる。 合理主義者で、用意周到な大規模地下陣地を構築し、将兵を事前の爆撃・艦砲射撃に耐えさせ、万歳突撃による玉砕を禁じ、徹底的な持久戦を行って出血を強いる作戦に出た。 これは本土防衛のための時間稼ぎであると同時に、アメリカ国内の世論が戦闘結果より米軍の死傷者数に敏感なことを意識してのことでもある。 その結果、日本軍の死傷率は実に96%を越えるが、物資も豊富で兵力も3倍以上のアメリカ軍に対して敵・味方も予想し得ぬ長期にわたる善戦をし、大戦末期としてはペリリューの戦いをも上回る異例の被害を与えた。 ![]() |
262 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:58:48.48 ID:RQeZpgdD0
>>259
明らかに五本の指に入るね
264 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:59:46.09 ID:CwOozwC90
>>259
十傑に入るわなぁ
269 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:01:52.59 ID:b3FHFsop0
>>259
被害(戦死+負傷者数)が
硫黄島守備隊<アメリカ軍となってアメリカ側の上層部がドン引きした
事前砲撃を数日続けて、補給完璧、制空制海権掌握の状態でこれだから
279 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:06:58.44 ID:CwOozwC90
>>269
旧日本軍の指揮官も本当に凄いよなぁ
281 名前: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 [] 投稿日:2011/07/01(金) 22:07:30.79 ID:p6b2t2Dd0
戦時中はあまり分からないんだがその硫黄島の岡林閣下は具体的にどんな戦術行ったんだ?
300 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:20:05.97 ID:b3FHFsop0
>>281
基本的に日本軍の戦術は水際作戦で
(上陸時の一番反撃しにくい場面に総力を挙げて一撃、撃退できればそれでおk、失敗したら後の組織的反攻は考えない)
上陸地点にトーチカ群を作り迎撃、まあ兵力差から必ず失敗するのでその日の夜に夜襲をかけて、水際作戦終了と言うのが一連の流れ
しかし硫黄島の場合、「本土進攻を1日でも遅らせる」という命令を受けている為(大抵の防衛戦はそうなんだけど)
水際作戦による決戦を望む将校の要求を退け、水際作戦を放棄
島中に塹壕と連絡トンネル、トーチカ群を数ヶ月かけ築城し、島全体を要塞化
敵上陸時は射線と射程確保できる擂鉢山と南の本営から十字砲火の雨を降らせ大打撃を与え、
その後は内部に敵を引き込みゲリラ戦法+夜襲の連続で正面から戦わない様徹底
事前砲撃で数日島中砲撃の雨が降ったけど、日本軍側の日記によると、砲撃による被害は殆ど無かったらしい
そういう要塞化した島で戦ったという事
306 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:23:45.53 ID:wI2ZsFq1O
土方歳三は評価低いの?
http://ja.wikipedia.org/wiki/土方歳三 土方 歳三は、新選組副長、幕末の幕臣、幕府陸軍の軍人。新選組「鬼の副長」として恐れられた。 戊辰戦争では幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮し、いわゆる「蝦夷共和国」においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任した。 ![]() |
307 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 22:24:30.81 ID:CwOozwC90
>>306
二股口とか良かったよな
http://ja.wikipedia.org/wiki/二股口の戦い 二股口の戦いは、箱館戦争における戦闘のひとつである。 箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を阻止した。 ![]() |
でも土方なら中島三郎助が良い
http://ja.wikipedia.org/wiki/中島三郎助 中島 三郎助は、幕末期の幕臣。 戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁・榎本武揚らと行動を共にして同年8月19日に江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。 箱館政権(蝦夷共和国)下では箱館奉行並を勤めた。戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦した。 箱館市中が新政府軍に占領された後、軍議では降伏を説いたが、中島自身は千代ヶ岡陣屋で討死することを公言しており、 五稜郭への撤退勧告も、新政府軍からの降伏勧告も拒否。本陣五稜郭降伏2日前の明治2年5月16日、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。 ![]() |
340 名前: 忍法帖【Lv=21,xxxPT】 [] 投稿日:2011/07/01(金) 23:36:08.77 ID:VAkWlRnIP
鬼謀のひと 大村益次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/大村益次郎 大村 益次郎は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。 太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。 ![]() |
342 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 23:38:44.90 ID:CwOozwC90
>>340
鬼謀って格好いいよな
173 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/07/01(金) 21:00:55.93 ID:Hc0VtaNIO
地味ながら大村益次郎はすごいと思うけどなあ
戦闘の経験なくて戦術書読んだだけで敵味方の動きが頭の中でイメージ出来てたとか
しかもそれがバッチリ当たる
127 名前: 忍法帖【Lv=23,xxxPT】 [] 投稿日:2011/07/01(金) 20:41:06.55 ID:CR1Vp0dai
こうやって俺らから情報を聞き出す>>1が最高の戦術家だろ///
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