1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:17:42.26 ID:fLopjcrp0
第三位
鬼島津こと島津義弘の明大軍団10万の兵を、たった2千の兵で追い返した逆転勝ち
泗川の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/泗川の戦い
慶長3年9月、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。
圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、その時の明軍の数が3万7千から20万と諸説あり、明軍の死者の数も数千から8万と資料ごとにかなりの開きがある。
第二位
世界最強ロシアのバルチック艦隊を中古の艦隊で挑み、逆転勝ちした日露海戦
日露海戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本海海戦
日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で戦われた。
日本連合艦隊司令長官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、バルチック艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、連合艦隊の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となり、ポーツマス講和会議への道を開いた。当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は世界を驚愕させ、タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであった。
第一位
ナチスドイツにボコボコにされ、奇跡の大逆転でロシアの勝利。
スターリングラードの攻防戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/スターリングラード攻防戦
スターリングラード攻防戦は、独ソ戦におけるヴォルガ川西岸に広がるスターリングラードを巡り、繰り広げられた枢軸国軍(ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー)対ソビエト赤軍の戦いである。
スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、日露戦争の奉天会戦、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、経済損失をもたらした野戦に拡大した。また、史上最大の市街戦に発展した。
どーですか?
7 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:28:45.29 ID:fLopjcrp0
そんなんショボいショボい
17 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:43:14.78 ID:lM0Mgh2j0
スターリングラードは別にすごい逆転でもないだろうが
26 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:50:32.03 ID:fLopjcrp0
>>17
スターリングラードは凄い逆転勝ちだろ。
ロシアの首都モスクワを落とされる寸前から立て直し、敵ドイツの首都ベルリンを落としてるんだぞ?
こんな逆転勝ち見たことない
9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:32:09.69 ID:tfhJcawOO
桶狭間は?
http://ja.wikipedia.org/wiki/桶狭間の戦い
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川氏真・今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本の歴史上最も華々しい逆転劇と言われる非常に有名な戦いである。
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13 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:38:26.43 ID:fLopjcrp0
>>9
桶狭間の戦いなんて実は織田軍の方が兵力は上だった説が増えてるぞ
100 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 16:32:59.20 ID:wdzLMb+1O
桶狭間の今川軍は直前の戦もあって兵の配置が極度に分散してた
そんで手薄にならざるをえなかった今川本隊を豪雨に紛れて織田軍精鋭が奇襲したから兵力差とか指揮とかあんま関係ない
てかググればわかるけど今川義元ってかなりすごい人物
2 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 12:39:58.75 ID:qn852D/00
ヨーロッパで300対100万ってなかったか?あれは神話だったか?
10 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 12:50:30.90 ID:pIaID/8r0
>>2
300(スリーハンドレット)で有名のスパルタ対ペルシアの話か
http://ja.wikipedia.org/wiki/テルモピュライの戦い
テルモピュライの戦は、ペルシア戦争における戦いの一つ。紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘である。
海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前にギリシア軍が敗退した。
しかし、スパルタ軍とテスピアイ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、クセルクセスの兄弟を二人戦死させた。
21 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 13:00:17.30 ID:wdzLMb+1O
300対100万はガチであった
スパルタのスパルタクスがペルシアに反乱するんだよ
良いところまで行くけど結局負けるが
11 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:35:25.74 ID:Jm09/+p60
逆転では無いが冬戦争は凄い
http://ja.wikipedia.org/wiki/冬戦争
冬戦争は、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソビエト連邦がフィンランドに侵入した戦争である。
フィンランドはこの侵略に抵抗し、多くの犠牲を出しながらも、独立を守った。
76 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 15:10:09.37 ID:IZu+dir30
冬戦争
ソ連 フィンランド
歩兵 100万 25万
戦車 6500 数十
航空機 4000 100ちょい
こんなんでもソ連を撃退できるフィンランドに惚れる
77 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 15:13:15.15 ID:AcddPavW0
戦うたびに戦車が増える神秘の国フィンランド
4 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:23:46.30 ID:Jm09/+p60
>>1
昆陽の戦いが無いなんてどうかしてる
http://ja.wikipedia.org/wiki/昆陽の戦い
23年、中国河南省にあった昆陽城にたてこもった劉秀が40万の王莽の軍を八千余の兵で破った戦い。
昆陽攻略に梃子摺っている間に、5月末に宛は劉?により陥落し、さらに6月、劉秀が数千の援軍を引き連れて昆陽へ戻り、劉秀自ら歩兵・騎兵1千人余りを率いて、新の大軍の陣営から4,5里のところまで進軍してきた。
王邑・王尋はこれを甘く見て、自ら1万人余りの軍を率いると、味方の軍勢に軽挙妄動を禁じた上で単独で劉秀軍に挑みかかった。
しかし劉秀の果敢な戦いぶりの前に、王邑・王尋の軍は撃破されてしまう。
12 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:38:25.02 ID:91Qwgw7NO
目前まで迫ったオスマントルコ帝国の軍勢を
串刺しの森でビビらせて撤退させたワラキア攻防戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴラド・ツェペシュ
オスマン帝国のスルタンメフメト2世は大軍を率いてワラキアに何度か侵攻したが、兵力に劣るヴラド3世はゲリラ戦と焦土作戦で以って激しく抵抗し、その都度撃退する。
1462年の戦いでヴラド3世はメフメト2世の首を標的とした夜襲を敢行してオスマン帝国軍の多数を殺傷するも、イェニチェリの激しい抵抗にあってメフメト2世を殺すことはできなかった。
その後、ワラキアの首都トゥルゴヴィシュテに入城したメフメト2世を待っていたのは、ヴラド3世による大量のオスマン帝国兵の串刺しの林であり、それを見て戦意を失ったメフメト2世はワラキアを撤退した。
31 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 13:09:01.42 ID:HWYvCsRh0
7千人で20万人の包囲に2ヶ月間頑張ったけど最後は城門の閉め忘れで滅亡
コンスタンティノープルの陥落
http://ja.wikipedia.org/wiki/コンスタンティノープルの陥落
5月29日未明、ついにオスマン帝国側の総攻撃が開始された。
攻撃の第一波は、貧弱な装備と訓練のされていない不正規兵部隊たちだったため、多くが防衛軍に倒された。
第二波は、都市の北西部にあるブラケルナエ城壁に向けられた。ここは大砲によって部分的に破壊されていたため、なんとか侵入できる場所であったが、すぐに防衛軍によって追い払われた。
イェニチェリ軍団の攻撃にもどうにか持ちこたえていたのだが、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴが負傷したことで、防衛軍は混乱に陥り始めた。
不幸なことにブラケルナエ地区のケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかった。これを発見したオスマン軍は城内に侵入し、防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した。
33 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 13:11:11.46 ID:039aFlxJO
>>31
コンスタンティノープルェ…
25 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:50:28.89 ID:Jm09/+p60
官渡なんかも大逆転だけど、1位では無いな・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/官渡の戦い
官渡の戦いは、中国後漢末期の200年に官渡に於いて曹操と袁紹との間で行われた戦い。
白馬の戦いを前哨戦とし、袁紹の元に居た劉備が汝南方面で攪乱戦を起こすなど、中原一帯を巻き込んでいた。
28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:53:34.41 ID:i/wMmNeU0
あとは自爆気味だけどクレシーの戦いとか
http://ja.wikipedia.org/wiki/クレシーの戦い
クレシーの戦いではエドワード3世率いる少数のイングランド軍(約1万2千人)がフィリップ6世率いるフランス軍(約3万~4万人)を打ち破った。
歴史家はこの戦いを騎士道華やかなりし時代の終焉の始まりを告げるものだったと位置づける。
29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:59:04.24 ID:fLopjcrp0
関ヶ原の戦いも凄い逆転勝ちと言えばそうらしいよ。
世界のどの陸軍将校も関ヶ原の布陣を見ると西軍、石田三成の勝ちって言うらしい。
運に見放されたが三成は天才だったんだな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/関ヶ原の戦い
32 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:04:28.42 ID:Ma12vfyW0
三成は実際には総指揮官じゃなかった
その辺無視して、布陣だけを見ればそういう見方もできる
三成が命令できたのは石田家の軍勢だけ
18万石じゃ天下争うにはどうやっても力不足
徳川家なんかは200万石超えて、石高では豊臣家に匹敵してたし
34 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:07:44.85 ID:fLopjcrp0
>>32
でも家康の主力部隊は真田と戦ってて関ヶ原に参加してないだろ?
35 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:10:28.04 ID:Ma12vfyW0
>>34
家康率いる主力は参加してる。家康一人で関ヶ原に行くわけないだろ?
別働隊は参加していない。真田のとこで引っ掛かってたから
これも家康側からみたら、当初の予定通りと言う説もある
38 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:16:30.05 ID:fLopjcrp0
>>35
その別働隊抜きで考えても西軍勝利は確実だったはず。
フランス、イギリス、アメリカの陸軍将校が布陣見て西軍勝利と断言したのは事実。
百戦錬磨の陸軍世界最強のドイツですら西軍だと言い切った。
その後に東軍徳川家康の勝利と知ると不思議がって
「徳川家康はどんな近代兵器を使ったんだ?」
と質問されるほど
44 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 13:57:18.62 ID:veS0JjBC0
パーニーパットの戦い
ラージプート連合軍10万と象1000頭をその十分の一ほどの戦力で打ち破ったムガル帝国のバーブル
http://ja.wikipedia.org/wiki/パーニーパットの戦い
パーニーパットの戦いは、1526年4月に、ロディー朝スルタンイブラヒム・ロディーとムガル帝国の創始者であるバーブルの間で行なわれた戦い。
少数兵力ながら、鉄砲という火器を有効に用いたバーブル軍が勝利をおさめ、ムガル帝国インド支配の足固めを築くことになった。
47 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:31:33.34 ID:CiZ5GlyO0
コッラーの戦いだろ
32人で4000人に勝ったんだぜ
http://ja.wikipedia.org/wiki/コッラの戦い
コッラーの戦いは、1939年12月7日から1940年3月13日までの間ラドガ湖北部周辺で行われた戦い。冬戦争の一部。
フィンランド軍に対してはソ連は兵力で大きく勝っていたが、ソ連軍は悪路を移動する準備を怠っていたため、コッラー地方に数本しかない道路を強固に防御していたフィンランド軍による強い抵抗を受ける。
ソ連軍の進撃は阻止されたものの、戦いは冬戦争終結まで続いたため、防衛に当たった第12師団は大きな損害を出した。終戦間際には防衛側のフィンランド軍は崩壊寸前にまで陥っていたとされ、3月12日にはコッラ川の要衝から去っている。この翌日、戦争は終わった。
49 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:37:14.74 ID:fLopjcrp0
>>47
コッラーは事実なら確かに凄い
50 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:05:43.82 ID:cpuEzDMb0
紀元前401年
クナクサの戦い
ペルシア軍VSキュロス軍+ギリシャ人傭兵
開戦早々にキュロス軍の指揮官が死んでその兵達は敗走、ペルシア軍の勝利が決定付けられる。
だが最右翼にいたギリシア人傭兵部隊は指揮官の戦死に気づかずにそのまま戦闘を継続。
(戦列の幅が3km以上に伸びていたためすぐに知るのは困難であった)
当時のギリシャ重装兵は世界最強とも言われ、この時もその強さを発揮、
勝利者であるはずのペルシア軍はボコボコにされて壊走。
気付くと、戦場にはギリシア人傭兵部隊しか残っていなかったという。
またそこで初めて彼らは、雇い主のキュロス軍が敗走していたことを知った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/クナクサの戦い
52 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:11:15.37 ID:qKfDKYiW0
>>50
これすげーなwww
54 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:20:24.20 ID:Kr3iQuTmO
>>50 庸平かっこよすぎ
51 名前:四つん這い理事長の憂鬱[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:40:28.24 ID:QB4Ookby0
赤壁はランクインしないのか?
あとは合肥の戦いとか
http://ja.wikipedia.org/wiki/赤壁の戦い
赤壁の戦いは、中国後漢末期の208年、長江の赤壁において起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。
魯粛は劉備に孫権と同盟を結んで曹操と対抗するように説き、劉備は諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結び、孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を劉備の救援に派遣した。
一方の曹操軍も長江を下り、両軍は赤壁で一戦を交え、周瑜らは疫病に悩まされていた曹操軍を撃破した。曹操は後退し烏林に陣を張り、周瑜らも長江を挟んで対峙した。
周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、火攻めの策を進言した。そして自ら曹軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹軍が油断した隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。
72 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:57:15.97 ID:2v/pw6X3O
赤壁は20万対5万?だったかな
負けた原因は曹操の判断ミス
水軍の大半が降伏して間もない兵
曹操軍本隊は慣れない土地で風土病
勝てる要素無し
73 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 15:03:35.60 ID:+xpwhvX6O
合戦じゃないけど14人で稲葉山城取った半兵衛
稲葉山城奪取
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹中重治
主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。
このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか1日で奪取した。
織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。
52 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:41:21.27 ID:3A8wKQsN0
長坂の戦いも
二十騎で数千相手だぞ
http://ja.wikipedia.org/wiki/長坂の戦い
長坂の戦いは、中国、後漢末期の戦い。 建安13年(208年)、曹操が劉備を十万の兵を以って攻めたことによる。
曹操は南下する劉備が軍需物資が豊富な江陵を占拠することを危惧して輜重隊を後方に置いたまま軍を強行、襄陽を占拠する。
曹操は曹純・文聘とともに騎兵5千を率いて急ぎ劉備を追撃し、当陽県長坂で劉備に追いつくと、劉備は妻子を棄てて諸葛亮らとともに数十騎で逃走した。
趙雲は身に阿斗(後の劉禅)を抱き、甘夫人を保護して劉備に従った。
劉備より分かれて二十騎を率いた張飛は殿を務め、川に拠って橋を切り落とした。張飛が目をいからせ鉾を横に構えながら「この身は張益徳なり。俺のもとに来るなら必ず死ぬだろう」と呼ばわると、敢て張飛に近付く者はいなかった。この為に劉備は逃げ延びることができた。
60 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:35:24.41 ID:JLMe6wccP
スペインVSアステカ
スペイン人500人 アステカ人20万人
結果、スペインの圧勝
当時のアステカの王モンテスマは超ヘタレで、スペイン人にヘコヘコしまくってた
アステカ国内で反スペイン感情が高まると
モンテスマは国民をなだめようとする始末
んで怒り狂った国民に殺される
その後、全面戦争でアステカ消滅
62 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:40:48.71 ID:JLMe6wccP
スペインVSインカ
スペイン人180人 インカ帝国の人口1千万人
結果、スペインの圧勝
スペイン人の鉄砲にインカ人ビビりまくり
街中パニックになりインカ人は逃げ惑ってドミノ倒しになり大量に圧死
あっさり王も捕まり、王を人質にされインカ帝国降伏、そして消滅
64 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:42:31.86 ID:qKfDKYiW0
まあスペインもその後海賊に一方的にやられ続けるわけなんだけどね
71 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 14:51:58.79 ID:JLMe6wccP
>>64
海賊って言うかイングランドの私掠船なんだよね
スペインは海賊を取り締まるようにイングランドにお願いするんだけど
その海賊の元締めがエリザベス女王だったわけで
取り締まるどころか、ますます海賊行為が酷くなっていった
ようやくスペインも犯人がイングランドだったことに気が付き、即戦争状態に突入
当時、スペインは世界最強の海軍・無敵艦隊を有していて
逆にイングランドは海軍自体持ってなかった
エリザベスはビビりまくったけど、
海賊たちが少ない戦力で無敵艦隊に打ち勝った(アルマダの海戦)
狭いドーバー海峡におびき寄せて、大艦隊を各個撃破されたのが敗因
61 名前:四つん這い理事長の憂鬱[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:56:11.12 ID:QB4Ookby0
ドイツ三十年戦争とか、
百年戦争を洗えば面白いのあるかもね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三十年戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/百年戦争
62 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 01:58:49.69 ID:fLopjcrp0
>>61
ドイツは本当に凄いよな
あんな四方八方に別の国に囲まれて、しかも山や谷の自然要塞なんて全くない野原で国を構えて、陸戦のみで国を守ってきたんだぜ。
89 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2011/07/14(木) 16:10:47.69 ID:wdzLMb+1O
リアル戦国無双甲斐姫の
忍城攻防戦
兵士300+城下町の民3000vs石田光成率いる豊臣軍2万+援軍の真田親子+浅井長政軍で籠城戦をして実質勝利した
http://ja.wikipedia.org/wiki/忍城攻防戦
天正18年(1590年)6月、300余の兵と城下の民たち合わせて3,000人程度が籠もるだけの忍城に石田三成率いる2万余の豊臣秀吉軍が来攻した。
しかし、忍城は湿地を活かして築城されている上に、城代・成田泰季が率いる籠城軍の士気は高く、城攻めは難航した。
そこで三成は備中高松城同様に水攻めにしようと“石田堤”と呼ばれる長大な堤防を築くが、水が貯まったところで城兵が堤防を決壊させたため、濁流が三成軍を押し流し、多数の死者を出した。
また援軍に差し向けられた真田昌幸・幸村父子、浅野長政の猛攻に城門の一つが突破されそうになると、甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣し、多くの敵将を討ち取り、敵軍の侵入を阻止したとされる。
64 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 02:02:42.98 ID:iGCYBHuv0
逆転勝ちだろ?
ゲバラしかいねーだろ
最初大失敗して数名まで討ち減らされてからの大逆転
チェ・ゲバラの革命
http://ja.wikipedia.org/wiki/チェ・ゲバラ
1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのレジャーボート「グランマ号(Granma)」に乗り込んだ。
しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。
結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロ、カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった(生き残った人数が17人という説もある)。
79 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 03:48:27.45 ID:wIDJDJS90
国共内戦
毛沢東率いる八路軍は蒋介石率いる国民党軍に散々にやられ
山間部に引きこもって抵抗
日本が中国に進出してきたので2回の国共合作?して
抗日統一戦線で戦い、日本が降伏後はまた分裂して再開
アメリカが国民党軍 ソ連が共産党軍を支援して
毛沢東率いる共産党軍が国民党軍を台湾に追い出した
旧日本軍の残留部隊も戦いに参加したはず
共産党だったと思うけど 今の中国空軍の元は残留日本兵が育てた
だから毛沢東は結果論で日本を恨んでいなかった
むしろ良かったぐらいの事を言っていた気がする
http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次国共内戦、日中戦争
23 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:49:03.90 ID:Wd2wrYkk0
逆転っつうか、寡兵で勝ったって戦争ばかりだな
24 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/11/21(月) 00:50:16.44 ID:ApJ7Sa320
寡兵で勝つのは名将ではない
勝てる戦に勝つのが真の名将
世界で一番恐ろしい闇の世界史
日本人が知らなかった歴史の黒幕
その歴史常識にはウラがある!
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